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![]() ねじの歴史 ![]() ![]() 揚水ボンプ ![]() ![]() ねじプレス 大きな力を発生するために使われた最初のねじプレスは,紀元前100年にオリーブの実をつぶすために作られた図2.3に示すものでした。ねじプレスはまた,葡萄酒作りにも盛んに使われるようになり,古い時代に使われた三角ねじ山の太い木製のねじが地中海の周辺で多数発見されています。このねじプレスが,グーテンベルクの印刷機(1450年頃)に利用されて,現在も続いている活字文明の先駆けとなりました。新聞のことを"The Press"というのはその名残りです。![]() 締結用ねじ ![]() 1549年に来日したキリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルが,1551年に大内義隆に自鳴機(機械時計)を贈りました。その時計に使われているねじが我が国に伝わった最初の締結用ねじであると推定されます。次節で述べる火縄銃のねじに遅れることわずか6年です。図2.7は、1690年(江戸時代)に出版された"人倫訓蒙図彙"に出ている時計師の図で、後方に見える櫓時計の頂上部にベルを固定するためのねじがあり,"蕨手"と称する蝶ナットの翼の部分が図示されています。 我が国には,古くから"ろくろ"と称する回転加工機があって製陶,木工などに使われていましたが,工具を回転軸の方向に機械送りすることはしませんでした。したがって,1860年に幕府が造船用機械に含めてねじ切り旋盤をオランダから輸入するまでは,おねじはすべて鑢などによる手作りでした。 ![]() 火縄銃のねじ 1543年に,種子島に漂着したポルトガル人が携えていた2挺の小銃を,領主種子島時堯が大金を投じて買い上げました。 これが我が国に伝来した最初の火縄銃であり,この伝来銃の銃底をふさぐための"尾栓"及びそれがねじ込まれる銃底のめねじが,日本人が見た最初のねじであるとされています.時堯は,2挺のうちの1挺を種子島の刀鍛冶八板金兵衛に見本として与え,その模作を命じました。金兵衛は,苦心の末1年でこれに成功しました。金兵衛にとって尾栓のおねじの加工は比較的容易であり,例えば糸をコイル状に巻き付けて,その線に沿ってやすりで切り込んでいくといった方法が考えられます。しかし,金属加工用工具として"やすり"と"たがね"しかなかった当時の刀鍛冶の技術からすれば,銃底めねじの加工は難題でした。種々の苦心があった末,尾栓のおねじを雄型として熱間鍛造法で製作したのではないかと推定されます。伝来銃の銃底に加工されためねじは,時期的に見てタップを用いて加工されたものであることは,ほぽ間違いありません。金兵衛が製作した国産第1号(と伝えられる)の銃は,伝来銃(これは本物)と並んで西之表市の種子島博物館に展示されています。 1990年 日本規格協会刊 山本晃著 「ねじのおはなし」より 尚、小説「リスボアを見た女」(阿刀田高著、新潮社 181頁平成七年10月刊)も、 この鉄砲伝来をモチーフにした展開になっています。 |
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NC切削加工
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